パレスチナ問題
第一次大戦以前、イギリスはイスラエルの人々に対して、矛盾した確約をしてしまったのです。
フサイン・マクマホン協定とバルフォア宣言でイギリスの二重外交と呼ばれています。
フサイン・マクマホン協定=アラブ人の独立を承認。
バルフォア宣言=ユダヤ人国家の樹立を承認
第二次世界大戦になるとヒトラーに迫害されたユダヤ人たちが数多くこの地に移り住み、アラブ人との対立が激化していきました。
第二次世界大戦後、国際連合がこの問題に立ち入りパレスチナ分割案を提出しました。
アラブ側は拒否し、ユダヤ側は承認した。
1948年、強引にイスラエルを建国しました。これが第1次中東戦争になります。
数的に有利なアラブ側の敗北。
エジプトにて、米英によるアスワン・ハイ・ダムの建設中止。エジプト大統領ナセルは、スエズ運河の国有化を宣言し、スエズ運河の株を所持する英仏がイスラエルを支援し、戦争を扇動、シナイ半島を制圧。しかしソ連の介入をおそれたアメリカが停戦を働きかけ、3国は撤退するに至る。こののち国連の停戦決議を了承し、英仏両国はエジプトによるスエズ運河の国有化を受け入れた。
第3次中東戦争(1967)
別名:6日間戦争
イスラエルからの先制攻撃により、ヨルダン川西岸、シナイ半島、ゴラン高原を迅速に占領。
第4次中東戦争(1973)
今度はエジプトとシリアが先制攻撃をする。イスラエルは緒戦で大打撃を受けたが、その後ゴラン高原を再占領するなど反撃を開始。両者膠着し、約二週間後に国連の停戦決議を受け入れる。
このとき、アラブ諸国が原油価格を大幅に引き上げたため石油ショックが起こる。
1978年にようやく和平への動きが見え始めました。
キャンプ・デービッド会談。
アメリカの仲介でイスラエルとエジプトの両首脳は首脳会談にのぞみ、翌年1979年の平和条約調印に合意をしました。
イスラエルは第3次中東戦争にて占領したシナイ半島をエジプトに返還。
しかし80年代に和平の歩みが進展することはなく、キャンプ・デービッド会談に臨んだ時のエジプト大統領サダト氏も、イスラム原理主義者に暗殺されてしまいました。
80年代は何も目立った動きはなく、90年代になってから、イスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)が和解するという相互承認が実現するに至ります。
イスラエルはユダヤ人が樹立した国家なので、PLOは難民になったアラブ人たちが作った組織だということです。
1世紀近く争った両者が歩み寄りをみせたわけですね。
共存を確認しあった相互承認が1993年、その翌年からパレスチナ暫定自治が始まりました。
暫定政府の初代大統領はPLOのアラファト議長。
2004年からはアッバス議長が継いで、独立も視野に入れた自治を行っています。
イスラエルとパレスチナの合意はオスロ合意。オスロはノルウェーの首都です。
両政府ともにノルウェーとは仲が良い。
結果的には2006年このオスロ合意は崩壊してしまったと言われている。
キャンプ・デービッド会談から約15年後のオスロ合意。
それぞれの場所で両者が共存していくはずでしたが、しかしながらPLOによる自治が始まってもユダヤ人とアラブ人の対立が消滅したわけではありませんでした。
2007年6月、パレスチナ暫定政府の自治区であるガザ地区がイスラム原理主義ハマスによって制圧されてしまいました。
エジプトとヨルダンはイスラエルと平和条約を結んでいる。
エジプトのモルシ大統領はハマス寄りの姿勢。
イスラエルのスポンサーはアメリカで、ハマスはスポンサーはイラン。
イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相